その部屋には、音がなかった。
窓から差し込むやわらかな陽が、障子の格子を通して畳に模様を落としている。
ちゃぶ台の上には黒い鉄瓶と、湯のみがひとつ。
湯気がふわりと立ちのぼっては、すっと消えていった。
誰もいないはずの部屋で、誰かが淹れたてのお茶を残している。
人の気配だけが、温度の中に残されていた。
部屋の隅のカレンダーは、少し古びた日付を指したまま止まっている。
時計の音も、テレビの音もない。
ただ、お湯がまだ熱いことだけが、ここに時間が流れていることを教えてくれた。
静かで、穏やかで、でもなぜか少し切ない。
その感覚は、おそらく“懐かしさ”という名前に近い。
昭和の家には、こういう瞬間があった。
何かが始まる前でも、何かが終わったあとでもない時間。
誰も話さず、動かず、ただ陽のあたたかさを受け止めていたような、
そんな空白のような時間が。
お茶の香りがほんの少し、畳に染みついている気がした。
この家で過ごした誰かの、日常の欠片が、ここに封じ込められていた。
やかんも湯のみも、もう音を立てないけれど、
そこにあるだけで、語りすぎずに何かを伝えてくる。
この部屋の静けさは、決して空虚ではなく、
むしろ満ちていた。
時間は、誰にも気づかれずに、
しかし確かにここを通り過ぎていったのだ。
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